徳川慶喜役の草彅剛の演技はどう?大政奉還した慶喜公の功績とは?

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NHK大河ドラマ「青天を衝け」で一橋慶喜(のちの徳川慶喜)役に、草彅剛さんが抜擢されましたね。

水戸藩主である父・徳川斉昭の厳しい教育を受けた慶喜公を草彅さんはどのように演じるのか楽しみです。物語のカギを握る慶喜公とはどのような人物だったのか?

今回は、「徳川慶喜役の草彅剛の演技はどう?大政奉還した慶喜公の功績は?」と題して草彅剛さん演じる徳川慶喜にスポットをあてます!

徳川慶喜役の草彅剛の意気込みは?

草彅さんは、「慶喜役は人生にとっても大きな役になると思うので全力をもって挑みたい」と語っています。

また、「台本からはエネルギーをすごく感じているので感覚を研ぎ澄ませて演じ、みなさんの記憶に深く残る徳川慶喜にしたい」と意気込んでいます。

草彅さんはドラマのPRのインタビューで、慶喜役について「幕府を終わらせないといけないという特別な難しい心境を演じる役どころ」で、「役者みょうりに尽きる役を演じるにあたって、毎日ワクワク過ごしている」のだそうです。

草彅剛と吉沢亮は初共演

渋沢栄一役の吉沢亮さんと慶喜役の草彅剛さんは初共演 ♪

馬に乗った慶喜公に、栄一と喜作が直談判するシーンがあるのですが、史実に基づいているそうですよ。

 

渋沢栄一の行動力は、やはりその頃から芽生えていたのですね。

この勇気ある直談判が功を奏し、栄一は、翌日慶喜公にお目通りが叶うことになります!

草彅さんは、栄一から嘆願されるシーン撮影の後のインタビューでは次のように答えています。

草彅剛と吉沢亮インタビュー

草彅剛さんは、

栄一(吉沢さん)・喜作(高良さん)と出会い、抱えていた強い思いをぶつけられるシーンで、ふたりのエネルギーがビシバシと伝わってくる、とてもいいシーンでした。いよいよ大河ドラマが始まったなという気持ちでワクワクしていて、視聴者の皆さんにも何か温かいものを届けられることができるのでは、と言っています。

吉沢亮さんは、

最初の出会いのシーンでの佇まいや、草なぎさんが持っているオーラがすごくて、栄一が一方的に思いをぶつけるシーンでは、慶喜の存在感に負けないようにと熱量が上がりました。草なぎさんのおかげでいいシーンになったと語っています。

 

最後の将軍として幕府を終わらせるという役どころの、草彅さん演じる徳川慶喜公。
草彅さんの顔立ちは慶喜公のイメージと似ているんですが声のトーンがなんとなく軽い印象です。

慶喜公の音声は誰もきいたことがないわけですが、せりふ回しがブラタモリのナレーションの時と同じように原稿を読んでいるように聞こえるのは私だけ?(>_<)
ツヨポンファンの皆さん、ごめんなさい、、

渋沢栄一と徳川慶喜公のこの出会いから二人の物語がどう展開するのか?
今後草彅さんが最後の将軍をどのように演じるのか期待していますよ。

渋沢栄一との交流が生涯続いたといわれる徳川慶喜公の人物像をみてみましょう。

青天を衝け 公式ページは⇒⇒⇒こちらをご覧ください

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徳川慶喜の将軍へのあゆみ

徳川慶喜の生い立ち

徳川慶喜は、1837年天保8年、水戸藩の上屋敷(江戸・小石川)で生まれ、幼少期は松平七郎麻呂とよばれていました。

当時は、藩主の嫡男のみ徳川姓を名乗ることが許されていたため松平なのですね。

父親は、徳川御三家のひとつ水戸徳川家の当主・徳川斉昭でとても厳しい人でした。

母親は、皇族・有栖川宮家の出身という血筋で慶喜に英才教育を受けさせました。

11歳の時、徳川家の御三卿・一橋徳川家に養子として迎えられ一橋慶喜となりました。

将軍後見職から将軍へ

慶喜は安政の大獄で井伊直弼によって謹慎させられてしまいます。

桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、謹慎は解かれ慶喜は島津久光の力により将軍後見職として復権します。

当時、慶喜はもはや攘夷は不可能と思っていたので将軍後見職には就きたくなかったのだと推測できます。

将軍後見職である以上、攘夷断行しなくてはならないため西洋列強国との争いになると考えていたからです。

 

慶喜は将軍後見職を1年あまりで辞任し、御所を警護する禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に就きました。

 

ところが、14代将軍の徳川家茂が20歳で病死してしまい、慶喜は、徳川宗家を継承することになりました。

 

動乱の幕末、1866(慶応2)年、慶喜の次期将軍待望論が最高潮になり慶喜はついに15代将軍に就任します。

剛情公・二心殿とよばれた慶喜公

慶喜公は、一旦物事を決めると意見を変えないことから、「剛情公」とよばることもあったとか。

その反面、非常に頭脳明晰で臨機応変に立ち回れる人物でもあったので、「二心殿」というあだ名も持ち合わせていました。

慶喜公は、将軍在任期間中に一度も江戸城に入っていません。

京都での拠点となる二条城をも嫌い、近くの若州小浜藩邸から二条城に通っていたそうです。

 

二条城では、幕府の重臣たちと意見が対立して思うように仕事ができないため若州小浜藩邸から二条城に通って、独自路線の政治を行おうとしていました。

 

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大政奉還を決断した慶喜公

孝明天皇の崩御

孝明天皇は、妹の和宮を14代将軍の御台所にするほどの公武合体派(朝廷と幕府が協力して国難を乗り越えようという考え)でした。

慶喜は、孝明天皇を後ろ盾にしていたのですが、突然の天皇の崩御によって幕府は討幕派に対し不利な状況に追い込まれてしまいます。

大政奉還の建白書とは?

”幕府が自ら政権を朝廷に返上する”という大政奉還の申し立てを、土佐藩の前藩主・山内容堂から幕府に提出されます。この大政奉還の建白書を受けて、慶喜公が諸大名の重臣を二条城に呼び大政奉還について意見をききます。

慶喜公は、朝廷には政治を行う能力がないので、たとえ大政奉還しても当分は幕府が政権を担うと考えていました。

討幕派と戦争になるよりは政権を朝廷に返上した方が幕府にとって得策と考えたのです。

こうして、大政奉還は朝廷に受け入れられ、政権は幕府から朝廷へと移りました。

 

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慶喜の功績とは?

慶喜の功績とはどのようなことが挙げられるでしょうか?

  • 慶喜は、まず国内紛争を避けるべく大政奉還を決意しました。
  • 新政府軍と幕府軍との鳥羽伏見の戦いでは、錦の御旗の前に慶喜は新政府軍に恭順することを決断しました。
  • 江戸幕府は当時、フランスから軍事援助を受けていて、新政府軍にはイギリスがついていました。

慶喜公は、国内紛争がフランスとイギリスの代理戦争に発展することを恐れフランスからの援助を断ります。

  • そして慶喜は、ついに江戸城の無血開城を決断し江戸の町を大火にさらすことを避けました。

慶喜は、国内紛争の長期化を阻止した陰の功労者でもあるといえます。

渋沢栄一の尽力

渋沢栄一は、慶喜が将軍を継ぐ以前からの家臣です。

慶喜は財政改革に手腕を発揮した栄一を重用していました。

江戸城の無血開城や、西洋列強を巻き込む戦争の回避など、自ら身を引いた慶喜のこれらの功績に気づいた渋沢栄一は、慶喜の伝記を出版するなどして名誉回復に尽力しました。

のちに、渋沢栄一は当時を振り返り「自分が将軍だったなら日本国を大戦争に巻き込んでいたかもしれない。」と語っています。

 

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慶喜のその後

明治時代になり、政治の表舞台から姿を消した慶喜は、絵を描いたり、写真撮影など趣味に興じる日々を過ごしたそうです。

まだ30代の若さで将軍を退いた慶喜にとって、生涯信頼できる人物が、渋沢栄一でした。

慶喜の家臣であった渋沢栄一が徳川家イコール「朝敵」という汚名の名誉回復に努めた結果、明治天皇は慶喜を赦免した上、”公爵”(華族最上位)の称号を授けます。

自らの権力、地位、名誉と引き換えにフランスとイギリスの代理戦争の危機を回避させた徳川慶喜の功績はあまり取り上げられなかったものの、その後、渋沢栄一とともに歩んだ日本の近代化に大きく貢献しているのは間違いないでしょう。

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